判例

S25.10.11 大法廷・判決 昭和25(あ)292 専属傷害致死(第4巻10号2037頁)

判示事項:

一 刑法第二〇五条第二項の尊属傷害致死の規定は憲法第一四条に違反するか

二 憲法第一四条にいわゆる「法の下における平等」の意義と刑法における尊属殺人等の規定

要旨:

一 刑法第二〇五条第二項の規定は、新憲法実施後の今日においても、厳としてその効力を存続するものというべく、従つて本件において原審が被告人の尊属致死の所為を認定しながら、これに同法条の適用を拒定し、一般傷害致死に関する同法第二〇五条第一項を擬律処断したことは、憲法第一四条第一項の解釈を誤り、当然に適用すべき刑事法条を適用しなかつた違法があることに帰し本件上告はその理由があるのである。

二 むもうに憲法第一条が法の下における国民平等の原則を宣明し、すべて国民が人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会関係上差別的な取扱を受けない旨を規定したのは、人格の価値がすべての人間について同等であり、従つて人種、宗教、男女の性職業、社会的身分等の差異にもとずいて、あるいは特権を有し、あるいは特別に不利益な待遇を与えられてはならぬという大原則を示したものに外ならない。奴隷制や貴族等の特権が認められず、又新民法において妻の無能力制、戸主の特権的地位が廃止せられたごときは畢竟するにこの原則に基くものである。しかしながら、このことは法が、国民の基本的平等の原則の範囲内において、各人の年齢、自然的素質、職業、人と人との間の特別の関係等の各事情を考慮して、道徳正義、合目的性等の要請より適当な具体的規定をすることを妨げるものではない。刑法において尊属親に対する殺人、傷害致死等が一般の場合に比して重く罰せられているのは、法が子の親に対する道徳的義務をとくに重要視したものであり、これ道徳の要請にもとずく法にある具体的規定外ならないものである。

主    文

     原判決を破棄する。
     本件を福岡地方裁判所に差し戻す。
         

理    由

 検察官の上告趣意について。
 上告趣意によれば、原判決は被告人が直系尊属に対し傷害致死の結果を生ぜしめた事実を認定しながら、刑法二〇五条二項を適用せず、同条項は憲法一四条の規定の趣旨に背反するとの見地よりしてその適用を排斥し、同条一項を擬律し処断したのは、憲法の規定の趣旨を誤解し、まさに適用すべかりし処罰法規を適用せずして裁判をなした不法あるものとして破棄を免れないものと主張する。
 原判決は、その理由において、刑法二〇五条二項の規定が、「之を其の発生史的に観れば子に対して家長乃至保護者又は権力者視された親えの反逆として主殺しと並び称せられた親殺し重罰の観念に由来するものを所謂淳風美俗の名の下に温存せしめ来つたものであつて既に此の点に於て多分に封建的、反民主主義的、反人権的思想に胚胎したものとして窮極的に人間として法律上の平等を主張する右憲法の大精神に抵触するものであり、」と論じ、同条項が憲法一四条の国民平等、民主主義的精神に背馳し、憲法に反するものたることを断定しているのである。
 おもうに憲法一四条が法の下における国民平等の原則を宣明し、すべて国民が人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係上差別的取扱を受けない旨を規定したのは、人格の価値がすべての人間について同等であり、従つて人種、宗教、男女の性、職業、社会的身分等の差異にもとずいて、あるいは特権を有し、あるいは特別に不利益な待遇を与えられてはならぬという大原則を示したものに外ならない。奴隷制や貴族等の特権が認められず、又新民法において、妻の無能力制、戸主の特権的地位が廃止せられたごときは、畢竟するにこの原則に基くものである。しかしながら、このことは法が、国民の基本的平等の原則の範囲内において、各人の年令、自然的素質、職業、人と人との間の特別の関係等の各事情を考慮して、道徳、正義、合目的性等の要請より適当な具体的規定をすることを妨げるものではない。刑法において尊属親に対する殺人、傷害致死等が一般の場合に比して重く罰せられているのは、法が子の親に対する道徳的義務をとくに重要視したものであり、これ道徳の要請にもとずく法による具体的規定に外ならないのである。
 原判決は、子の親に対する道徳的義務をかように重要視することを以て、封建的、反民主主義的思想に胚胎するものであり、また「忠孝一本」「祖先崇拝」の思想を基盤とする家族主義社会においてのみ存在を許さるべきものであるというが、夫婦、親子、兄弟等の関係を支配する道徳は、人倫の大本、古今東西を問わず承認せられているところの人類普遍の道徳原理、すなわち学説上所謂自然法に属するものといわなければならない。従つて立法例中普通法の国である英米を除き、尊属親に対する罪を普通の場合よりも重く処罰しているものが多数見受けられるのである。しかるに原判決が子の親に対する道徳をとくに重視する道徳を以て封建的、反民主主義的と断定したことは、これ親子の間の自然的関係を、新憲法の下において否定せられたところの、戸主を中心とする人為的、社会的な家族制度と混同したものであり、畢竟するに封建的、反民主主義的の理由を以て既存の淳風美俗を十把一束に排斥し、所謂「浴湯と共に子供まで流してしまう」弊に陥り易い現代の風潮と同一の誤謬を犯しているものと認められるのである。
 さらに憲法一四条一項の解釈よりすれば、親子の関係は、同条項において差別待遇の理由としてかかぐる、社会的身分その他いずれの事由にも該当しない。また同条項が国民を政治的、経済的又は社会的関係において原則として平等に取り扱うべきことを規定したのは、基本的権利義務に関し国民の地位を主体の立場から観念したものであり、国民がその関係する各個の法律関係においてそれぞれの対象の差に従ひ異る取扱を受けることまでを禁止する趣旨を包含するものではないのである。原判決は被害者が直系尊属なる場合においてとくに重い法定刑を適用することを以て、人命保護及び科刑の面において国民中に特殊と一般との区別を設くることになり、従つて尊属親を一般の者よりもとくに厚く保護することになり、法律上不平等の結果を招来する趣旨を述べているが、立法の主眼とするところは被害者たる尊属親を保護する点には存せずして、むしろ加害者たる卑属の倫理性がとくに考慮に入れられ、尊属親は反射的に一層強度の保護を受けることあるものと解釈するのが至当である。
 なお原判決は親族間の愛情が法律の規定をまつてはじめてしかるものではなく、親族関係は刑の量定の分野において考慮されることは格例、法律を以て不平等を規定する合理的根拠を欠くものと断定するが、もし原判決のいうように子の親に対する倫理を強問することが封建的、反民主主義的であり、従つてそれを基礎とする法律が違憲であるとするなら、これを情状として刑の量定の際に考慮に入れて判決することもその違憲性において変りはないことになるのである。逆にもし憲法上これを情状として考慮し得るとするならば、さらに一歩を進めてこれを法規の形式において客観化することも憲法上可能であるといわなければならない。
 原判決は被害者が直系卑属またはその配偶者なる場合には、刑法二〇五条一項の規定の適用があることを指摘し被害者が直系尊属なる場合との不均衡従つて不平等を非難するが、この種類の犯罪に関し被害者たる親族の範囲を如何に区劃するやは、立法政策上の問題であり、各国の立法例によるも必ずしも一致していないのであり、従つて原判決がこの点を指摘して以て本条項の違憲性を認めるのは憲法論と立法論とを混同するものであることはまさに上告趣意(6)の所論のごとくである。
 はたしてしからば、刑法二〇五条二項の規定は、新憲法実施後の今日においても、厳としてその効力を存続するものというべく、従つて本件において原審が被告人の尊属致死の所為を認定しながら、これに同法条の適用を拒否し、一般傷害致死に関する同法二〇五条一項を擬律処断したことは、憲法一四条一項の解釈を誤り、当然に適用すべき刑事法条を適用しなかつた違法があることに帰し本件上告はその理由があるのである。
 よつて刑訴四〇五条四一〇条四一三条本文に従つて主文のとおり判決する。
 この判決は、裁判官斎藤悠輔の実体法に関する補足意見及び事件の取扱に関する反対意見、裁判官真野毅、同穂積重遠の反対意見を除く外他の裁判官の一致した意見である。
 裁判官真野毅の少数意見は左のとおりである。
 原判決は、直系尊属に対する傷害致死罪に関する刑法二〇五条の規定を違憲無効だと解した。これに対し、検察官側から同条の合憲性を主張して本件上告が申立てられた。私は、結論として原判決の違憲説を是認すべきものと信ずるが故に、本件の検事上告は棄却さるべきものである。その理由の大略を左に述べる。
 一 憲法一四条は、「すべて国民は、法の下に平等」であると宣言している。米国連邦最高裁判所の正面玄関の上には、「法の下における平等な正義」(イクオール・ジヤステイス・アンダー・ロー」の四字が大理石に刻まれている。これらは一体何を意味するか。それは、言うまでもなく民主主義を基調とする法の下における平等の大原則を高らかに歌つたものである。国際連合世界人権宣言二条においてもこの原則は厳かに宣言されている。およそ民主主義の基礎は、人間の尊厳を前提とする個人の平等すなわち一切の人格の平等にある。個人の平等の基礎は、解放された自由な個人が外部的強制によつてではなく自らの内在的深奥の自発性に基いて行動しようとする自主的独立自尊の精神と、これと一体不離の関係にある自己責任の精神とにある。自己において自主と責任とを尊ぶことは、同時に他人においてもその自主と責任とを尊ぶことを伴い、自己の人格におけると他人の人格におけるとを問わず人間性を尊重し、単にこれを手段視せず常に同時にこれを目的として遇することとなり、かくして必然に一切の人格の平等の意識に到達するわけである。結局民主主義とは、個人と個人との基本的人権が対等であることが基底である。かゝる法の下における平等の原則は、多年に亘る歴史的成果として広く一般に承認せられ、新憲法一四条において明らかに宣言されたところのものである、さて、本件の刑法二〇五条において直系尊属に対する傷害致死について普通の傷害致死と区別し特に重い刑を科することは、明白な差別待遇であつて、前記法の下における平等の大原則に反し、憲法一四条に違反するものと言わねばならぬ。いま、解りやすくするためにABCをそれぞれ直系尊属とし、A’B’C’をそれぞれの直系卑属として図に示してみよう。
第 一 図
<記載内容は末尾1添付>
 第一図においては、被害者Aを中心として観察したものであるがA’がその直系卑属Aから傷害致死をうけた場合には、BB’CC’その他から傷害致死をうけた場合と区別せられA’のみが特別の重刑を科せられる。言いかえれば、AはA’との関係においてのみより厚い保護を受ける。これが不平等にあらずして何ぞや。また、第二図においては、加害者A’を中心として観察したものであるが、A’がその直系尊属Aに傷害致死を与えた場合には、BB’CC’その他に傷害致死を与えた場合と区別せられ、特に重い刑を科せられる。これまた不平等にあらずして何ぞや。前述した人格平等、個人平等の基本思想従つて法の下における平等の憲法原則に違反するものであることは、むしろ明々白々である。
 二 次に、憲法一四条は、前述のごとく法律の下における平等の原則を一般的に宣言していると共に、その平等原則の適用の例示として、「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない」、「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」旨を規定している。本件刑法二〇五条の直系尊属に対する傷害致死の重罰規定は、前記憲法の例示規定の正条にいわゆる「社会的身分、、、、により政治的、、、、差別」をすることに該当し、この点から言つても憲法違反である。多数意見は、しきりに親子の道徳を強調するが、そしてそれは民主主義を理解しない者の俗耳には入り易いものであるが、子の親(直系尊属)に対する道徳の中から、正しい民主主義的な人間の尊厳、人格の尊重に基く道徳を差引いたら、その後に一体何が残るであろうか。それは、
 (一)子の親に対する自然の愛情に基く任意的な服従奉仕と、
 (二)親の恩に対する報恩としての服従奉仕の義務に過ぎない。これらは、本来個人の任意に委さるべきものであつて、法律上の権利義務関係となし又はその他の法律上の保護を与えるには適当しないのである。却つて法律上の強制を与えないことによつてますます自由な感覚の下に道徳的価値を純化し高揚せしめなければならぬ領域に属するものである。純理からすれば合理的民主的国家組織においては、道徳的なものと法的なものとが区別されずに混りあつている原始社会におけるとは異り、道徳的なものと法的なものとをそれぞれ独自の領域に従つて分つことを必要とする。そして、道徳と法律との営む独自の機能の差異を吟味した上で、法律を道徳と矛盾しないように制定することを要するのである。古往今来、子の親に対する道徳は、一般に孝と呼ばれ、海よりも深く山よりも高いといわれた親の恩に対する報恩感謝としての絶対的服従奉仕の義務を中心とした。かようにいわゆる孝道の核心は報恩である点において、封建武士の知行、扶持、禄に対する報恩を核心とする封建的主従関係と同じ根本原理に立つものである。この孝道は社会的構成において身分的上位にある親と身分的下位にある子との間の、すなわち身分的に不平等な人問の間の関係であつて、平等な個人の問の関係ではない。かくて、いわゆる従来の孝道は、家族制度の基本であり、一種の権力支配関係である家長制の基礎であり、同時に封建的色彩の濃厚なものであつたのである。これはまことに厳然たる歴史的事実である。新しい孝道は、人格平等の原則の上に立つて真に自覚した自由な強いられざる正しい道徳であらねばならぬ。かくのごとく、親と子との間には従来永く社会的身分に上位下位の差別があり、これによつて生じた孝道規範の一として定められた親殺し重罰、尊属に対する傷害致死重罰の規定は、憲法一四条の例示規定そのものにも違反するのである。
 三 多数意見は、刑法が尊属に対する傷害致死等について重刑を科しているのは、子の親に対する道徳的義務を重要視したものであり、「夫婦、親子、兄弟等の関係を支配する道徳は、人倫の大本、古今東西を問わず承認せられているところの人類普遍の道徳原理、すなわち学説上所謂自然法に属する」と言つている。しかし、ソレ親子の道徳だ、ヤレ夫婦の道徳だ、それ兄弟の道徳だ、ヤレ近親の道徳だ、ソレ師弟の道徳だ、ヤレ近隣の道徳だ、ソレ何の道徳だと言つて、不平等な規定が道徳の名の下に無暗に雨後の筍のように作り得られるものとしたら、民主憲法の力強く宣言した法の下における平等の原則は、果して何処え行つてしまうであろうか、甚だ寒心に堪えないのである。刑法の尊属殺の規定にしろ尊属傷害致死の規定にしろ、実際上においては殆んど無用でありまた時には有害であるとさえ言われている。これは統計によつても実証し得られるところがあろう。平等の大原則を破り得るほどの必要な合理的根拠は存在しないのである。しかるに、かかる規定の上述のように明確な不平等が存するに拘わらず、ただ漠然と道徳の名の下に平等原則に違反せずとする多数意見の態度には到底是認することを得ないものがある。
 四 また多数意見は、平等の原則をもつて「基本的権利義務に関し国民の地位を主体の立場から観念したものであり、国民がその関係する各個の法律関係においてそれぞれの対象の差に従ひ異る取扱を受けることまでを禁止する趣旨を包含するものではない」と言つている。これは全くその意味を了解するにさえ苦しむほどのものである。主体の立場から観て前掲第一図に示したように犯罪行為の主体がA’であるか又はBB’CC’であるかによつて不平等を生ずるのである。それ故、多数意見のこの理由からはむしろ平等原則違反を認めるの外はないことになるであろう。さらに、第二図に示すようにA’の行為の対象がAであるか又はBB’CCであるかによつて生ずる不平等を憲法の平等原則から除外すべき何等の実質的理由はない。結局、第一図の不平等も、第二図の不平等も同じものであつて、ただ異つた見地から見ただけのことだ。主体と対象とで区別する多数意見は全くナンセンスである。なおさらに対象の異るに従つて保護に厚薄があることが平等原則に反することは、後述の皇室に対する罪の廃止された際の経緯と経過に徴しても明らかではないか。それは勿論対象に対する保護が一般に比して厚いことが民主主義のために不平等とされたのではないか。
 五 昭和二二年刑法の一部改正によつて皇室に対する罪は廃止せられ、七三条ないし七六条は削除された。その理由は、天皇も憲法一四条の適用をうけるとの前提の下に、刑法における特別保護を差別的なものとして廃止しようとするにあつたことは明白である。歴史的に見ればわが国では大宝律においては、尊属殺は悪逆と呼ばれ(子殺は却つて普通殺人よりも軽く扱われた)、天皇弑虐は謀反と呼ばれ、共に八虐の罪の一として数えられ、この二者に最も重い刑を科して以来、永くこの伝統を保ち現行刑法に及んだ。ところが、憲法改正の結果、昔の謀反罪に相当する皇室に対する罪の規定は前述のごとく全く削除されたのである。これと同時に、理論上は尊属殺、尊属傷害致死等に関する規定も当然削除さるべきものであつたが、政治上の緩急は比較的小さいこの問題をそのまゝ後に残したに過ぎないのである。 (一九四六年一二月二七日時の総理大臣は総司令部に対し書面を送り、刑法尊属殺の規定の存在を一理由として、皇室に対する罪の存続を必要とする旨を述べているが、それは民主化と平等原則に反するとして容れられなかつたということである。)
 裁判官穂積重遠の少数意見は左のとおりである。
 本件は刑法二〇五条に関するが、問題は同二〇〇条から出発するゆえ、両条にわたつて意見を述べる。そして先ず両法条の立法を批判したい。
 刑法二〇〇条は、同一九九条に「人ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ三年以上ノ懲役ニ処ス」とあるのを受けて、「自己又ハ配偶者ノ直系尊属ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期懲役二処ス」としたのである。すなわち法定刑の上限は共に死刑であるから、もし尊属殺は極悪非道なるがゆえに極刑を以て臨まねばならぬとしても、それは、一九九条でまかない得るのであつて、特に二〇〇条を必要としない。
 そこで普通殺人と尊属殺との刑罰の差違は、各法定刑の下限に存する。すなわち前者にあつては刑を懲役三年まで下げて執行猶予の恩典に浴せしめることができ、後者は死刑にあらずんば無期懲役と限られているから、かりに法律上の減軽と酌量減軽のあらん限りを尽したとしても、懲役三年半以下に下げることができず、従つて執行猶予を与え得ない。刑法が両者の間にかような差違を設けた理由は、正に多数意見が説くとおりであろうが、普通殺人に重きは死刑にあたいし軽きは懲役三年を以て足れりとしてかつその刑の執行を猶予して可なるがごとき情状の差違あると同様、尊属殺にも重軽各様の情状があり得る。いやしくも親と名の附く者を殺すとは、憎みてもなお余りある場合が多いと同時に、親を殺しまた親が殺されるに至るのは言うに言われぬよくよくの事情で一掬の涙をそそがねばならぬ場合もまれではあるまい。刑法が旧刑法を改正してせつかく殺人罪に対する量刑のはゞを広くしたのに、尊属殺についてのみ古いワクをそのままにしたのは、立法として筋が通らず、実益がないのみならず、量刑上も不便である。
 刑法二〇五条の傷害致死罪については、普通人に対する場合は「二年以上ノ有期懲役」であるが、直系尊属に対する場合は「無期又ハ三年以上ノ懲役」となつているのであるから、法定刑の上限にも下限にも差違を設けてあり、尊属傷害致死について特別の規定をした意味がある。ところが刑法二〇八条の傷害を伴わぬ暴行罪および同二〇四条の死に至らざる傷害罪については、普通人に対するものと直系尊属に対するものとによつて刑の軽重を設けていない。もし「かりにも親のあたまに手をあげるとはげしからん」というのであるならば、そもそも暴行罪からして直系尊属に対するものを重く罰せねばならず、いわんや傷害の故意があつて傷害の結果を生ぜしめた場合はもちろんである。しかるにその暴行傷害を特に重しとせずして、未必の殺意すらないのにたまたま致死の結果が生じた本件のごとき場合になつてはじめて普通人に対する傷害致死と差別して刑を重くするのは、立法として首尾一貫せず、かつ殺意なき行為に対する無期懲役は、科刑として甚だ酷に失する。刑法二〇五条一項により有期懲役の長期たる一五年まで持つて行ければ充分であろう。
 なお遺棄罪については刑法二一八条二項に、また逮捕監禁罪については刑法二二〇条二項に、それぞれ直系尊属に対して犯された場合の刑の加重が規定されている。本件直接の関係でないゆえ一々論及しないが、殺傷の場合の議論が大体当てはまる。
 さらに注目すべきことは、刑法二〇〇条および二〇五条二項の「直系尊属」の範囲である。それは民法の規定に従うのであるが、その民法に新憲法の線にそう改正があつて、「直系尊属」の範囲が変更し、以前は直系の尊属卑属であつた継父母継子の親子関係が認められないことになつた。そこで新民法下において刑法二〇〇条および二〇五条二項を適用すると、継父母を殺しまたは死に致したのは尊属殺または尊属傷害致死ではないことになる。しかし継父母殊に継母は継子に取つて、場合によつて実母同様、少くも養母以上の恩義があり得る関係である。それゆえ殺親罪を認めながら継父母殺しを殺親罪としないことは、父母的関係においてそれよりも遠い「配偶者ノ直系尊属ヲ殺シタル者」を殺親罪に問うのとくらべて、甚しい不釣合であつて、新憲法下に殺親罪という旧時代規定を保存した矛盾の一端がはからずもここに暴露したものというべきである。
 かくして刑法二〇〇条および同二〇五条二項は、立法としてすこぶる不合理でありかつ不要であつて、昭和二二年法律第一二四号による刑法一部改正の機会に削除せらるべきであつたと思うが、その機を逸してその規定が現存する今日、この二箇条が憲法に違反する無効のものではないだろうかということが問題になるのは、当然である。原判決は、刑法二〇五条二項を憲法一四条に違反するものであるとして、本件犯行に同条一項を適用し、当裁判所の多数意見は、検事上告を容れて、右刑法二〇五条二項は憲法違反にあらず、従つて本件犯行には右条項を適用すべきものとするのであるが、原判決も検事上告も、また当裁判所多数意見も、単に刑法二〇五条二項だけでなく、同二〇〇条をも含めて、殺親罪全体を問題としている。本裁判官は原判決を、その説明には過不及があるが、結論において正当と認めるがゆえに、以下当裁判所多数意見および上告論旨の諸論点について意見を述べたい。
 (一) 問題の焦点は憲法一四条である。多数意見は、同条は「大原則を示したものに外ならない」のであつて、「法が、国民の基本的平等の原則の範囲内において、、、、道徳、正義、合目的性等の要請により適当な具体的規定をすることを妨げるものでない」とする。しかしながら、憲法が掲げた各種の大原則については、できるだけ何のかのという「要請」によつてその範囲を狭めないように心がけてその精神を保持することが、殊に旧習改革を目指した新しい憲法の取扱い方でなくてはならないと考える。憲法一四条の「国民平等の原則」は新憲法の貴重な基本観念であるところ、実際上千差万別たり得る人生全般にわたつて随所に在来の観念との摩擦を起し、各種具体的除外要請を生じ得べく、あれに聴きこれに譲つては、ついに根本原則を骨抜きならしめるおそれがあることを、先ず以て充分に警戒しなくてはならない。上告論旨(4)は、憲法一四条は「いかなる理由があつても不平等扱を許さないとまでする趣旨ではない。…一定の合理的な理由があれば必ずしも均分的な取扱を要しないものと解すべきである。」と言うが、さような考え方の濫用は憲法一四条の自壊作用を誘起する危険がある。平等原則の合理的運用こそ望ましけれ、不平等を許容して可なりとなすべきでない。
 (二) 多数意見は、刑法の殺親罪規定は「道徳の要請にもとずく法による具体的規定に外ならない」から憲法一四条から除外されるという。しかしながら憲法一四条は、国民は「法の下に」平等だというのであつて、たとい道徳の要請からは必らずしも平等視せらるべきでない場合でも法律は何らの差別取扱をしない、と宣言したのである。多数意見は「原判決が子の親に対する道徳をとくに重視する道徳を以て封建的、反民主主義的と断定した」と非難するが、原判決は「親殺し重罰の観念」を批判したのであつて、親孝行の道徳そのものを否認したのではないと思う。多数意見が「夫婦、親子、兄弟等の関係を支配する道徳は、人倫の大本、古今東西を問わず承認せられているところの人類普遍の道徳原理」であると言うのは正にそのとおりであるが、問題は、その道徳原理をどこまで法律化するのが道徳法律の本質的限界上適当か、ということである。日本国憲法前文は、憲法の規定するところは「人類普遍の原理」に基くものであると言つているが、「人類普遍の原理」がすべて法律に規定せらるべきものとは言わない。多数意見は親子間の関係を支配する道徳は人類普遍の道徳原理なるがゆえに「すなわち学説上所謂自然法に属するもの」と言う。多数意見が自然法論を採るものであるかどうか文面上明らかでないが、まさか「道徳即法律」という考え方ではあるまいと思う。「孝ハ百行ノ基」であることは新憲法下においても不変であるが、かのナポレオン法典のごとく「子ハ年令ノ如何ニカカワラズ父母ヲ尊敬セザルベカラズ」と命じ、または問題の刑法諸条のごとく殺親罪重罰の特別規定によつて親孝行を強制せんとするがごときは、道徳に対する法律の限界を越境する法律万能思想であつて、かえつて孝行の美徳の神聖を害するものと言つてよかろう。本裁判官が殺親罪規定を非難するのは、孝を軽しとするのではなく、孝を法律の手のとゞかぬほど重いものとするのである。
 (三) 上告論旨(5)は、「尊属親関係は依然新民法の下にも是認されている」と言う。なるほど民法は七二九条、七三六条、七九三条、八八七条、八八八条、八八九条、九〇〇条、九〇一条および一〇二八条に「尊属」「卑属」という言葉を使つているが、それは単に父母の列以上の親族を「尊属」子の列以下の親族を「卑属」と名附けたゞけで、実質上何ら尊卑の意味をあらわし取扱を差別しているのではない。新憲法下においては「尊」「卑」の文字は避けるとよかつたのだが、適当な名称を思い附かなかつたので、「目上一「目下」というくらいの意味で慣用に従つたのであろう。そして直系尊属なるがゆえにこれを扶養を受ける権利者の第一順位に置いた民法旧規定は、新憲法の線にそう民法改正によつて消滅したのである。
 (四) 多数意見は「憲法一四条一項の解釈よりすれば、親子の関係は、同条項において差別待遇の理由としてかかぐる、社会的身分その他いずれの事由にも該当しない。」と言う。上告論旨(3)も同趣旨である。これらは同条項後段に着眼しての議論であるが、その議論の当否はしばらく措き、憲法一四条一項の主眼はその前段「すべて国民は法の下に平等」の一句に存し、後段はその例示的説明である。その例示が網羅的であるにしても、その例示の一に文字どおりに該当しなければ平等保障の問題にならぬというのであつては、同条平等原則の大精神は徹底されない。そして多数意見は親に対する子の殺傷行為の方面のみから観察するが、その方面から観ても、同一の行為につき相手方のいかんによつて刑罰の軽重があらかじめ法律上差別されているということは、憲法一四条一項の平等原則に絶対に違反しないとは言い得ないのである。
 (五) さらに転じて、同じ犯罪の被害者が尊属親なるがゆえにその法益を普通人よりも厚く保護されるという面から観れば、問題の刑法規定が憲法一四条の平等原則に違反することは明白である。多数意見は「立法の主眼とするところは被害者たる尊属親を保護する点には存せずして、むしろ加害者たる卑属の背倫理性がとくに考慮に入れられ、尊属親は反射的に一層強度の保護を受けることあるものと解釈するのが至当である。」と言うが、立法の主眼が果していずれにあるかは問題である。刑法二〇〇条についてはその点が明白でないが、前に述べたとおり、刑法二〇八条の暴行罪および同二〇四条の傷害罪においては、加害者が卑属なるがゆえに刑を加重せられるのではなくて、同二〇五条の傷害致死罪に至りはじめて被害者が尊属親なるによつて重刑が科せられるのであるから、立法の主眼が尊属親の法益保護にないとは言えない。そしてたとい「反射的」にせよ尊属親なるがゆえに「一層強度の保護を受けることがある」以上、正に憲法一四条一項の平等原則に違反すると言わざるを得ないのである。
 (六) 多数意見は、原判決が「個々の場合に応じて刑の量定の分野に於て考慮されることは格別」と言つたのをとらえて、もし原判示のごとくんば、親であり子であることを「情状として刑の量定の際に考慮に入れて判決することもその違憲性において変りはないことになるのである。逆にもし憲法上これを情状として考慮し得るとするならば、さらに一歩を進めてこれを法規の形式において客観化することも憲法上可能であるといわなければならない。」と逆襲する。しかし、法定刑に上限下限のひらきを設けて裁判所の情状による量刑にまかすことは現代の刑法上当然の立法であり、加害者、被害者の身分上の続がらがその情状の一であることも無論さしつかえない。たゞ「さらに一歩を進めてこれを法規の形式において客観化すること」が「法の下に平等」の憲法原則に違反し得るのである。
 (七) 上告論旨(2)は「尊属と卑属との関係は、、、如何なる人においても存するのであつて、それは必ずしも或る特殊の人に対して社会的な差別を認めたものとは考えられない。」と言う。それは結局「尊属」「卑属」の関係を憲法一四条一項の「社会的身分」に当てはめまいとした議論であるが、身分なるものは必ずしも特殊的確定的なるを要せず、時に随つて変転するものでもさしつかえない。ともかく特定の時において尊属たる身分に在りそしてその身分のゆえに卑属たる身分に在るのとは違つた待遇を受けることが法律できまつていれば、「法の下に平等」とは言い得ないのである。
 (八) 上告論旨(6)は「今後の立法問題として、かかる特別な規定を設け置く要ありゃ否やの問題と、今日現に存するこの種規定がはたして憲法に違反するかどうかの問題とは、厳に区別さるることを要」するとし、多数意見も右の論旨を是認して、原判決は「憲法論と立法論とを混同するものである」と非難する、原判決はそこまで踏込んで論じてはいないように思はれるが、なるほど憲法論と立法論とを混同すべきではあるまい。しかし前に述べたとおり、刑法二〇〇条と同二〇五条二項との小合理はかなりに著明であり、そしてそれは新憲法前の規定で、新憲法の制定とそれに伴う民法の改正とによつてその不合理が増大したのであるから、右条項は憲法一四条一項と併せて同九八条一項により、憲法施行と同時に効力を有しないことになつたのではないかとさえ考えられる。そしてこれまた前に述べたとおり、これら特別規定なくとも普通規定によつて不孝の子を懲罰するに甚しく妨げないのであるから、問題の刑法規定の違憲性を論ずるに当り立法上の不当と不要とを一論拠とするのも、必ずしも見当違いではないのである。
 以上の理由によつて本裁判官は、本件についての当裁判所裁判官多数意見に賛同し得ず、検事上告を棄却して原判決を維持するを適当と信ずるものである。
 裁判官斎藤悠輔の意見は次のとおりであつて、要するに本件上告の理由あることについては多説に賛成し、少数説に対しては特に世道人心を誤るものとして絶対に反対し、本件については当裁判所において直に判決すべきものと主張する。憲法一四条一項に「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により政治的、経済的又は社会的関係において差別されない。」と規定したのは、その所定の理由により、その所定の関係において差別するがごとき非合理的な不公平の待遇を禁止する趣旨であつて、合理的な理由による公平な差別的取扱を妨げるものでないことは既に昭和二二年(れ)七三号同二三年五月二六日の大法廷判決において私見として述べたところである。(判例集二巻六号五五〇頁参照)すなわち、同条項の平等は、国民がその基本的な法的関係における主体としての待遇についての合理的な平等であつて、物理的、均分的な悪平等ではない。されば、一定の年令に達しない国民すなわち実際上国民の大多数を占める未成年者に対し選挙権を与えず、少年竝びにこれに関係ある成人に対してのみ少年法による審判を受ける権利を与え、婦人に対してのみ有給の生理休暇を与えるがごとき必ずしも同条項に反するものではない。また、同条項の社会的身分とは例えば親分、乾児のような単なる社会生活上の身分を指すものであつて、合理的理由のある憲法上文は法律上認められた身分をいうものではないと解すべきである。例えば憲法上認められている公務員に対し刑法上その職務の執行を保護すると共にその漬職を罰し緊急避難を許さないものとすること、累犯者又は業務者の刑を加重し、親族の刑を免除しその他刑法六五条所定の身分は右憲法の社会的身分に含まれないものと解すべきである。(昭和二二年(れ)一九六〇号同二四年五月二八日第二小法廷判決参照)そして、親子の道徳である孝は、結局祖先尊重に通ずる子孫の道であつて、多数説の説くがごとく人倫の大本、人類普遍の道徳原理である。これを尊重するため法律上尊属なる身分を認めることは国家社会の秩序を維持するため極めて合理的理由のあるところであつて、尊属なる身分は右憲法の社会的身分に含まれないものと解するを相当とする。抑も、刑法は、国家社会の秩序を維持し、国民の権利を保全するを目的とし、かかる秩序又は権利を侵害する者をその犯情に応じ処罰するものである。従つて、犯罪の処罰は犯人の社会的又は道義的責任をその責任関係における主体として追及するものであつて、憲法一四条所定の政治的、経済的又は社会的関係における主体としての処遇ではない。真野裁判官は、権利関係における主体と責任関係における主体とを混同し、犯罪の主体を犯罪を行う権利の主体と誤解しその結果犯罪の処罰を憲法一四条の政治的関係における処遇に該当すると主張する。しかし、憲法一四条は、憲法第三章国民の権利及び義務の章中の個人尊重の条項の次に規定され、すべて国民は法の下に平等であると宣言しているのであるから、同条は、国民が基本的な法的関係における主体として平等な待遇を受け、故なき差別を受けないという原則的な権利乃至地位を規定したものと解すべきである。国民が国民としての基本的な法的関係において国家社会の秩序を害し、他人の基本的な権利を侵すべき権利乃至地位を有すべき理由など絶対にあるべき筈がなく、まして、その権利なき行動に対する責任関係において平等な待遇を受ける憲法上の権利乃至地位を与えられる道理などは全然存しないのである。憲法は犯罪の処罰に関しては別にその第三一条以下において適当な保障を与えているのである。されば、刑法がその所定の各種の身分により或は犯罪の構成を認め、或は刑罰に軽重の差異を設けるのは、犯人の責任を追及すべき条件に関する立法政策の問題であつて、憲法一四条適否の問題とはなり得ない。従来当裁判所が刑事事件における憲法一四条違反の主張をたやすく適法視し来つたのは根本的に誤りであつて、速に改めらるべきものと考える。
 しかるに、原判決は「刑法二〇五条二項の規定を発生史的に観れば子に対して家長乃至保護者又は権力者視された親への反逆として主殺しと並び称せられた親殺し重罰の観念に由来するものを所謂淳風美俗の名の下に温存せしめ来つたものである」と説明する。しかし、かかる説明は後記のごとく沿革上全然根拠のない無責任な放言であつて、これを是認するには厳格にして明確な証明を必要とする。また、原判決が「既に此の点において多分に封建的、反民主主義的、反人権的思想に胚胎したものとして窮極的に人間として法律上平等を主張する右憲法の大精神に牴触するものである」と説明する。事弦に至つては驚くべき小児病的な民主主義であり、悲しむべき人権的思想であるといわなければならない。人倫の大本、人類普遍の道徳原理を刑法上尊重することが何故に封建的であるのか。また、国民の何人も不道徳であるとする尊属殺又は尊属致死を重く罰することが何故に反民主主義的になるのであるか。更に、凡そ国民は憲法上他の国民の生命を奪う人権を有するのであるか。若し真野裁判官の説くがごとく、個人平等の基礎を成す自主には責任を伴うものであり、民主主義とは結局個人と個人との基本的人権が対当であることが基底であるとすれば、何人であれ他人の生命を奪つた者は自らも生命を奪われるのが平等であり、民主主義的であるともいい得るのである。更にかかる民主主義的見地に立つて一歩を進め原判決の論法を借りるならば、刑事被告人であるという身分により、人の生命を奪つても、無期や二年又は三年以上の有期懲役で足りるとする刑法一九九条の規定の一部又は二〇五条一項の規定こそ「窮極的に人間として法律上の平等を主張する憲法の大精神に牴触」して、無効であるともいい得るのではなからうか。現に英米法では一般に人を殺した者は死刑に処するが故に尊属殺に対する特別加重を認めないのである。原判決は、何故に先ず以て単なる人間として憲法上保障されている被害者の生命を尊重しないのであるか。更に原判決は「祖父母、父母に対する告訴、告発の規定が廃止された事実を以て端的にこれ(尊属殺規定の廃止)を指示するもの」と解する。しかし、旧刑訴二五九条、二七〇条の廃止は、わが国における忠孝の思想を極端なる国家主義の基礎を成すものと誤解した勢力の影響によるもので、同条を存置しても同二六三条(新刑訴二三四条)がある以上実際上は何等の不都合を生ずることはなかつたのであり、また、これを廃止しても依然として刑訴二四八条(旧刑訴二七九条)の適用はあるのである。されば、かかる無用の改正に対し盲目的にひたすら尾を振り耳を垂れて迎合することこそ封建的な奴隷根性というものである。元来孝は祖先尊重に通ずる子孫の道である。これをわが国においてのみ観るも曾つて生存したわれらが祖先は少くとも十数億を下らず、現存する子孫は僅かに八千余万に過ぎない。そして、われらの使用する一言半句、その道具である口唇、さては我、汝それ自身でさへ祖先の遺産であることを三思すべきである。原判決竝びに少数意見の思想のごときは、この道義を解せず、たゞ徒に新奇を逐う思い上つた忘恩の思想というべく徹底的に排撃しなければならない。
 次に、少数意見について一言しよう。真野説は、勢頭米国連邦最高裁判所に掲げられている標語や国際連合世界人権宣言を由ありげに引用している。だが、悲しいかな、米国各連邦では必ずしも法律が同一でなく、従つて、かかる異なる法の下における実際上の正義が平等であり得ないことはいうまでもない。しかのみならず米国には人種による差別的法律の多数存在することは、世界周知の事実である。さればこそ米国連邦最高裁判所においては特に標語として論者引用の四字をかの真白き大理石深く刻んでおく必要があるのであつて、我憲法上段鑑とするは格別毫も模範とするに足りないものである。また、世界人権宣言は、いうまでもなく世界に対する宣言で、現に国際上政治的、経済的又は社会的関係において差別されているわれらは、もとより大いに歓迎するところではあるが、しかし、一国内における憲法乃至法律の解釈としてかかる国際的宣言を引用することは適当とはいえない。されば、わが憲法一四条を解釈するに当り冒頭これらを引用するがごときは、先ず以て鬼面人を欺くものでなければ羊頭を懸げて狗肉を売るものといわなければならない。以下の論旨については前に一、二触れたのであるが要するに民主主義の美名の下にその実得手勝手な我儘を基底として国辱的な曲学阿世の論を展開するもので読むに堪えない。
 穂積説は、主として刑法一九九条と同二〇〇条との法定刑に関する立法を非難する。しかし、旧刑法においては多くの外国の立法例と同じく殺人罪には死刑と無期徒刑のみを認め、従つて、一家の恥辱を蔽ふがため又は養育を為すこと困難である等のための「子殺し」就中嬰児殺においても、これを強いて故殺として最大限の酌量二等を減じてもなお重懲役(九年以上一一年以下)たるを免れなかつたので実際上往々特赦を行うの外なかつた経験に鑑み現行刑法制定の際これらの場合に応ずるため新に五年以上の懲役に処することを得るものとする改正案を設け、更らに刑の執行猶予を一年以下の禁鋼又は六月以下の懲役(いわゆる短期自由刑)の言渡を受けた者に対し為し得るの原案を二年以下の懲役又禁鋼の言渡を受けた者に改正すると共にこれが適用をもあらしめるため現行刑法のごとく三年以上の懲役と改めたのであつて、刑法一九九条における三年以上の有期懲役は主として嬰児殺の場合に適用させる趣旨であり、成人を殺した者に対しては死刑又は無期懲役を適用する趣旨であつたのである。また、旧刑法第三編第一章第一三節には祖父母、父母の身体に対する罪を網羅規定し、その第三六二条において「子孫其祖父母ヲ謀殺故殺シタル者ハ死刑ニ処ス」とあつて、いわゆる尊属殺の刑は死刑のみであつたのを現行刑法二〇〇条はこれを緩和して無期懲役にも処し得るようにしたのである。なお右旧刑法の節を改正する際祖父母、父母の名称をやめ新に尊属なる民事法規の用語を使用すると共に尊属に対する殴打創傷、誣告、誹毀等の加重規定を廃止した外一般に尊属に対する罪の法定刑を緩和した上(尊属殺の場合は前に述べた。また、殴打創傷その他の罪に因る致死は死刑であつたのを無期又は三年以上の懲役に緩和した。)更らに旧刑法三六五条の特別の宥恕及び不論罪の例を用いることを禁じた規定をも廃止して、正当防衛等は勿論酌量減軽をも為し得るようにしたのである。論者よ、以上の改正がどうして親殺し重罰の観念を温存したことになり、また、何か古いワクをそのまゝにしたのであり、更に何が立法として筋が通らないのであるのか、休み休み御教示に預りたい。問題は、むしろ現行刑法の法定刑の規定の仕方の当否である。現行刑法の法定刑は、旧刑法の法定刑を緩和すると共に同一罪名にして態様を異にする犯罪の各刑罰を概ね同一罪名の一ケ条に纏めたものであつて、その法定刑の種類、範囲の広汎、多数であること世界にその比を見ないのである。わが刑法各本条の法定刑は、学者が往々誤解するがごとく、単に一犯罪構成要件に該当するたゞ一つの事実に対する一回的な評価のみを規定したものではなく、いわゆる連続犯、牽連犯、包括一罪等は勿論常習等をも見込んですべてこれを賄い得るように包括的に規定したものであることに留意すべきである。かくのごとき刑罰の規定の仕方は、厳格なる意味において罪刑法定主義とはいえないのである。されば、旧刑法改正当時においてこそ法定刑の選択、宣告刑の量定において旧法に規定されたところと大差なかつたのであるが、星移り霜を重ねるに従い漸次旧法の刑が忘れられ、現在においては概して法定刑の軽き種類及び短期を標準とする傾向となつたのである。寛刑を法の涙と称え、口を開けば執行猶予を叫び、死者は誹諺され、被害者は無視され、かくして基本的人権は独り法廷に生き残つた加害者のみに存するがごとき観をすら呈するに至つたのである。これを要するに論者の説は現行刑法の文字の末のみを見て毫もその沿革を知らず、たゞ尊属に対する罪を旧態依然として重罰のみに処しているという先入観に基くものといわざるを得ない。
 最後に多数説は、刑訴四一三条本文に従つて本件を原裁判所に差し戻すべきものとした。しかし、本件は、訴訟記録此びに原裁判所において取り凋べた証拠によつて、直ちに判決をすることができると認められるから、訴訟経済上同条但書によつて当大法廷において直ちに判決を為すべきものと考える。
 検察官 安平政吉関与
  昭和二五年一〇月一一日
     最高裁判所大法廷
            裁判官    塚   崎   直   義
            裁判官    長 谷 川   太 一 郎
            裁判官    沢   田   竹 治 郎
            裁判官    井   上       登
            裁判官    栗   山       茂
            裁判官    小   谷   勝   重
            裁判官    島           保
            裁判官    斎   藤   悠   輔
            裁判官    藤   田   八   郎
            裁判官    岩   松   三   郎
            裁判官    河   村   又   介
 裁判長裁判官田中耕太郎、裁判官霜山精一、同真野毅、同穂積重遠は出張につき署名押印することができない。
            裁判官    塚   崎   直   義