判例

S56.04.07 第三小法廷・判決 昭和51(オ)749 寄附金返還(第35巻3号443頁)(板まんだら事件)

判示事項:

信仰の対象の価値ないし宗教上の教義に関する判断が訴訟の帰すうを左右する前提問題となつている具体的権利義務ないし法律関係をめぐる紛争と裁判所法三条にいう法律上の争訟

要旨:

訴訟が具体的な権利義務ないし法律関係に関する紛争の形式をとつており、信仰の対象の価値ないし宗教上の教義に関する判断は請求の当否を決するについての前提問題にとどまるものとされていても、それが訴訟の帰すうを左右する必要不可欠のものであり、紛争の核心となつている場合には、該訴訟は、裁判所法三条にいう法律上の争訟にあたらない。



主    文

     原判決を破棄する。
     被上告人らの控訴を棄却する。
     控訴費用及び上告費用は被上告人らの負担とする。
         

理    由

 上告代理人色川幸太郎、同川島武宜、同奥野彦六、同米田為次、同柏木千秋、同松本保三、同松井一彦、同中根宏、同桐ケ谷章の上告理由第一点について
 裁判所がその固有の権限に基づいて審判することのできる対象は、裁判所法三条にいう「法律上の争訟」、すなわち当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であつて、かつ、それが法令の適用により終局的に解決することができるものに限られる(最高裁昭和三九年(行ツ)第六一号同四一年二月八日第三小法廷判決・民集二〇巻二号一九六頁参照)。したがつて、具体的な権利義務ないし法律関係に関する紛争であつても、法令の適用により解決するのに適しないものは裁判所の審判の対象となりえない、というべきである。
 これを本件についてみるのに、錯誤による贈与の無効を原因とする本件不当利得返還請求訴訟において被上告人らが主張する錯誤の内容は、(1) 上告人は、戒壇の本尊を安置するための正本堂建立の建設費用に充てると称して本件寄付金を募金したのであるが、上告人が正本堂に安置した本尊のいわゆる「板まんだら」は、日蓮正宗において「日蓮が弘安二年一〇月一二日に建立した本尊」と定められた本尊ではないことが本件寄付の後に判明した、(2) 上告人は、募金時には、正本堂完成時が広宣流布の時にあたり正本堂は事の戒壇になると称していたが、正本堂が完成すると、正本堂はまだ三大秘法抄、一期弘法抄の戒壇の完結ではなく広宣流布はまだ達成されていないと言明した、というのである。要素の錯誤があつたか否かについての判断に際しては、右(1)の点については信仰の対象についての宗教上の価値に関する判断が、また、右(2)の点についても「戒壇の完結」、「広宣流布の達成」等宗教上の教義に関する判断が、それぞれ必要であり、いずれもことがらの性質上、法令を適用することによつては解決することのできない問題である。本件訴訟は、具体的な権利義務ないし法律関係に関する紛争の形式をとつており、その結果信仰の対象の価値又は宗教上の教義に関する判断は請求の当否を決するについての前提問題であるにとどまるものとされてはいるが、本件訴訟の帰すうを左右する必要不可欠のものと認められ、また、記録にあらわれた本件訴訟の経過に徴すると、本件訴訟の争点及び当事者の主張立証も右の判断に関するものがその核心となつていると認められることからすれば、結局本件訴訟は、その実質において法令の適用による終局的な解決の不可能なものであつて、裁判所法三条にいう法律上の争訟にあたらないものといわなければならない。
 そうすると、被上告人らの本件訴が法律上の争訟にあたるとした原審の判断には法令の解釈適用を誤つた違法があるものというべきであり、その違法は判決の結論に影響を及ぼすことが明らかであるから、論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。なお、第一審の準備手続終結後における被上告人らの仮定的主張(詐欺を理由とする贈与の取消あるいは退会により本件寄付は法律上の原因を欠くに至つたとの主張)は、民訴法二五五条一項に従い却下すべきものである。したがつて、その余の上告理由について論及するまでもなく被上告人らの本件訴は不適法として却下すべきであるから、これと結論を同じくする第一審判決は正当であり、被上告人らの控訴はこれを棄却すべきである。
 よつて、民訴法四〇八条、三九六条、三八四条、九六条、八九条、九三条に従い、裁判官寺田治郎の意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
 裁判官寺田治郎の意見は、次のとおりである。
 被上告人らが本件訴訟において寄付金名義の金銭給付契約(被上告人らの主張する贈与)における意思表示の無効原因として主張する要素の錯誤の内容は、多数意見の述べるとおりであり、その錯誤の成否の判断に際しては、信仰の対象についての宗教上の価値ないし教義に関する判断が必要であつて、これらはいずれもことがらの性質上法令を適用することによつては解決することのできない問題であるゆえ、裁判所の審判の対象となりえない、とする点については、私も、多数意見と見解を異にするものではない。
 しかし、被上告人らの本訴請求は、前記契約により給付した金銭につき、当該契約の錯誤による無効を原因として右金銭の返還を求める不当利得返還の請求、すなわち金銭の給付を求める請求であつて、前記宗教上の問題は、その前提問題にすぎず、宗教上の論争そのものを訴訟の目的とするものではないから、本件訴訟は裁判所法三条一項にいう法律上の争訟にあたらないものであるということはできず、本訴請求が裁判所の審判の対象となりえないものであるということもできない(最高裁昭和三〇年(オ)第九六号同三五年六月八日大法廷判決・民集一四巻七号一二〇六頁参照)。前提問題である宗教上の問題が実際上訴訟の核心となる争点であり、その点の判断が訴訟の帰すうを左右する必要不可欠のものであるとしても、その理を異にするものではない、と考える。
 そして、このように請求の当否を決する前提問題について宗教上の判断を必要とするため裁判所の審判権が及ばない場合には、裁判所は、当該宗教上の問題に関する被上告人らの錯誤の主張を肯認して本件金銭の給付が無効であるとの判断をすることはできないこととなる(無効原因として単に錯誤があると主張するのみでその具体的内容を主張しない場合、錯誤にあたらない事実を錯誤として主張する場合等と同視される。)から、該給付の無効を前提とする被上告人らの本訴請求を理由がないものとして請求棄却の判決をすべきものである。
 本件においては、第一審の準備手続終結後における被上告人らの仮定的主張を却下すべきことは多数意見の説くとおりであり、また、記録上窺われる本件訴訟の経緯にかんがみれば、新たな主張をする余地はないものと認められるから、結局、被上告人らは、本件金銭給付契約の無効原因たる錯誤の内容としてもつぱら宗教上の判断を必要とする事項のみを主張することに帰する。そうすると、本件金銭の給付が無効であることを前提とする被上告人らの本訴請求は、あらためて車実審理をするまでもなく理由のないことが被上告人らの主張自体に徴し明らかであるから、かような場合には、原審としては、民訴法三八八条の規定を適用して事件を第一審に差し戻すのではなく、ただちに自ら請求棄却の判決(後述の趣旨においては、控訴棄却の判決)をすべきであつたのである。しかるに、原審が錯誤の主張の成否について審理を尽くさせるため本件を第一審に差し戻すべきものとしたのは、結局、裁判所の審判権に関する法令の解釈を誤つたか、又は民訴法三八八条の規定の解釈適用を誤つたものというべきであり、この点において原判決は破棄を免れない。
 以上の次第で、当裁判所としては、原判決を破棄し第一審判決を取り消して、被上告人らの本訴請求を棄却すべきところであるが、ただ、本件において、第一審裁判所がした訴却下の判決に対しては、第一審の原告である被上告人らのみが控訴し、第一審の被告である上告人は控訴していないから、いわゆる不利益変更禁止の法理(民訴法三八五条参照)により、第一審判決の結論を維持するほかなく、被上告人らの控訴を棄却するにとどめざるをえない(最高裁昭和二八年(オ)第七三七号同三〇年四月一二日第三小法廷判決・民集九巻四号四八八頁参照。)
 以上に述べた趣旨において、私も、多数意見と結論を同じくするものである。
     最高裁判所第三小法廷
         裁判長裁判官    横   井   大   三
            裁判官    環       昌   一
            裁判官    寺   田   治   郎